携帯用小型プリンターprimpact(プリンパクト)で大敗を喫したアイカムス・ラボは、持ち前の技術で、測量機や一眼レフカメラのフォーカスのアクチュエーターを量産し、ベンチャー企業が必ず落ちるというデスバレーを抜け出した。

そしてひょんなことから医療機器という分野で医療業界に参入することになるのだが……。

<今回の登場人物>

片野 圭二……アイカムス・ラボ社長 元アルプス電気の技術者
藤澤 久一……アルプス電気時代の片野の先輩。マイクロシリンジのアイディアを与える。


磨き抜いた技術で、未知の医療という分野を切り拓く


今回は、藤澤久一という男をまず紹介したい。

彼はアルプス電気盛岡工場では、すこし特異な位置にいた。

おのおのの技術を突き詰めていく技術者が多い盛岡工場ではめずらしく、俯瞰してものをみるタイプ、いわゆるアイデアマンで、名刺大の小さな紙片や、大催事で使う特大サイズの掲示物などを印刷する特殊なプリンターの開発などに従事していた。

藤澤はやや遅れてアルプス電気を退社し、アイエスエスに入社した。そこで一時、社長を務めていたが、ある日、片野の小型不思議遊星歯車を見て、「この技術はマイクロシリンジ(syringe 液体の注入)に使うといいんじゃないか」と言った。

しかし、言われた側の片野は「そうなのか」と思うばかりで、この時点では具体的な商品のアイデアにまで発展することはなかった。

そして2008年、リーマン・ショックが起こった。

この激震は日本列島にも達して、主として輸出産業に負の影響を与えた。岩手県はこれまで、主たる地場産業として自動車、次に半導体を掲げていたのだが、この二分野は大きな打撃を受けた。

一方で、医療産業ではさほどの悪影響は観察されなかった。このデータを検討した岩手県の振興部門は、第3の地場産業として医療産業を掲げ、「医療機器事業化研究会」なるものをスタートさせる。

しかしこの実態は、医療業界からさまざまな人間を講師に招いて話を聞くという勉強会でしかなく、講師を招いての座学から実際のビジネスまではかなりの隔たりがある。

偶然にもこれと歩調を合わせるかのように、片野は医療産業に足を踏み入れることになる。

県庁が医療機器事業化研究会をスタートさせた前年の2007年、アイカムス・ラボは機械要素展示展という展示会にブースを出していた。このとき同社は、とある大手の医療機器分析装置のメーカーから訪問を受けた。

彼らはアイカムス・ラボの不思議遊星歯車の技術に注目し、これを自社の分析装置に組込めないかと片野たちに相談した。

イメージが湧くように具体例を挙げて説明しよう。

例えば、私たちは健康診断のために病院に行くと採血される。採られた血は分析装置にかけられる。分析装置はなにをしているかというと、血と試薬を混ぜ、その反応によって、さまざまな数字をはじき出すわけである。

この試薬と血液を混ぜ合わせるという段階で、滴下する量を正確に調整する必要がある。この滴下をコントロールする口の部分のユニットを業界ではマイクロピペットと呼ぶ。このユニットを作れないだろうかと相談されたわけである。

この分析機器メーカーは、混和する際に、滴下する量をより正確にコントロールしたいと考えていた。最初に書いた「マイクロシリンジに使うといいんじゃないか」という藤澤の予言めいた言葉がにわかに現実味を帯びてきたわけである。

同社より試作品の開発を受注したアイカムス・ラボは2008年に新型マイクロピペットを完成させる。これはクライアントからは高い評価を持って受け入れられた。

ただし、これはまだ、分析器の一部を作ったにすぎず、片野がアルプス時代から自ら掲げていた「自社製品を世に問う」という目標地点まではまだ距離があった。

ともあれ、これはアイカムス・ラボの医療協会の参入のきっかけにはなったわけである。期せずして、この2008年は上に述べたように、県庁の方針に医療産業の促進という項目が付け加わった年でもあった。

アイカムス・ラボが開発した「pipetty(ピペッティ)」

ピペットに潜む負を解消しなければ


片野は、これまでは完全に未知のフィールドであった医療業界に可能性を見るようになっていく。

しかし、この業界は参入障壁が高い。薬事法というややこしい法律があり、ミスを犯したときに会社が追わなければならない責任も大きなものとなる。リスクが高い業界だと言えよう。

その一方で、先に述べたように確たる需要もある。好奇心もそして酒も強い片野は、医療業界の人間と交流を持つようになり、この業界について情報を仕入れ、徐々に見聞を深めていった。

そこで片野はピペットを使った滴下作業の95%が「手動」で行われていると耳にする。ここでいうピペットは、先程挙げたような機器に組み込むものではなく、医療・化学系の研究者が握って使うスポイトのようなものだ。

若手の研究者は、ピペット作業をまるで修行のように、ひたすら行う。しかし、実際にピペットを持ってみた片野は意外な重さに驚いた。

これはかなりの重労働だと実感した。実際に、右手が動かなくなると左手で作業を続けることもあると知った。

「ピペット奴隷」という隠語もあるほどで、腱鞘炎に悩みつつこの作業を行っている者も少なくない。さらに、ピペットは握って持つものなので掌から体熱が伝わり、精度に悪影響を及ぼすという問題もあった。

また当然、手動では巧い人と下手な人の差が出る。この時、「電動ピペット作ろう!」と片野は決心した。

悲願の市場開拓。そのとき、初めて男の夢は叶った。


2012年の夏、試作機が完成する。これは画期的なものとなった。まず、世界最小・最軽量という点が注目に値する。さらに、高精度で連続分注できるという点で作業のスピードアップも実現した。

加えて、作業者の手への負担を減らすためにペンのような持ちかたもできるように工夫を凝らした(シャーペンの芯を出すときのように、握り込んで親指で軸の頭をノックしなくても、書く時の持ち方のまま、軸に添えた人差し指でボタンを押し、滴下させることが可能。これで特許を取得している)。

翌2013年、アイカムス・ラボはこの電動ピペットをpipetty(ピペッティ)と名付け販売を開始した。

大きな敗北を喫した携帯用小型プリンターprimpactと同じ小型不思議遊星歯車の技術を用い、pipettyというオリジナル製品で再び勝負を仕掛けたわけである。

pipettyの商品開発の意図は業界から好意的に迎えられ、実際に使ってみての評判も上々であった。

また、2013年6月には「ガイアの夜明け」というテレビ番組が大手企業から独立したベンチャー企業を特集した際に、アイカムス・ラボとpipettyもわずかな時間ではあったが紹介されもした。

片野はようやくprimpactの敗者復活戦に勝ち、そして、自社の完成品で市場に参入するというアルプス電気時代からの念願を果たした。

さて、この前年の2012年、医療業界に新しい可能性を感じ始めた片野は、県が主催する「医療機器事業化研究会」に参加するようになる。

しかし、その内容には物足りなさを感じた。県が主催するいわゆる勉強会は、大手医療機器メーカーの人間を呼び、そこで関係が生まれ部品の仕事をもらう、ということを目指しているように映ったからだ。

もちろんそれもひとつのビジネスである。けれど、独自の製品や事業を創出して自立していかなければ、これからの日本において地域の未来はないと片野は感じていた。

しかし、片野の不満も理解できるが、産業においてプレーヤーではない県には、できることは限られている。ならばと思い、この年の7月2日、この医療機器事業化研究会の中に「分析装置分科会」を立ち上げようと提案した。

驚くべきなのはこのスピード。盛岡の特徴は、片野らのベンチャーの迅速さが県の動きを凌駕していることだ。さて、片野はこの分科会で、具体的には何を目指したのだろうか。

片野が提出した提案書を読むと、医療という分野で、県内のベンチャーの技術を連携させようという目論見を見て取ることができる。

この時点で片野はベンチャーどうしの連携を強く意識していたようである。具体的な活動としては、医療業界の参入障壁の高さを考慮し、まずは業界に精通したアドバイザーを含めた検討会からこの分科会をスタートさせた。

そして、「東北でなにやら妙な動きをしている集団がいる」という噂を聞きつけて、ひとりの医療関係者が岩手にやってくる。

ネットワークの外側から思いがけない人間が訪れて、集団がにわかに活性化するということはよく言われる。

この男の到来は、集団に新たな視点を持ち込み、東北ライフサイエンス機器クラスター、つまりTOLIC(Tohoku life science Instruments Cluster)に発展する足がかりを与えることになる。

それが、現在このTOLICにおいて片野と並ぶもう1人の中心人物となっている岩渕拓也である。

(続く)

 


【連載】東北再生

第1話 新年の盛岡。激震が走った工場撤退の一報
第2話 「岩手に起業家はいるのか」・・・疑念からはじまった県のベンチャー支援
第3話 はじまった盛岡、ベンチャー狂騒曲
第4話 集う実力派エンジニア。始動した第一号ベンチャー
第5話 4250万円の開発資金を手にした時に見えた、女神の姿
第6話 進まぬベンチャー支援。盛岡に光を!
第7話 産官連携の新たな形。投資の理由は、片野圭二という男の可能性
第8話 夢、破れた男。そして再起
第9話 夢破れた至高の技術で、男は再び勝負する
第10話 盛岡に現れた、新たな雄。東北を動かす異端の登場
第11話 高校生とドイツへ。そこで明らかになった日本、そして盛岡の立ち位置
最終話 盛岡で起きた、必然という名の奇跡


文・榎本憲男(えのもとのりお)

小説家 『エアー2.0』で大藪春彦賞候補。ロックとオーディオ好きな刑事を主人公にした『真行寺弘道シリーズ』で新しい警察小説の可能性を切り拓いたと注目を浴びる。最新刊は『エージェント 巡査長 真行寺弘道』。