県庁で産業振興に携わっている黒澤芳明は、岩手での起業を促進しようと10億円のファンド組成に成功する。しかし、問題はそのマネーを誰に託すかであった。そして運用を任せるファンド会社に黒澤芳明がつけた条件とは……。
年季・実績ともに岩手県庁産業振興部門の中心的な人物、黒澤芳明。
彼がこの部門へ転勤してきたのは1993年のことであった。そこには相澤徹という先輩がいた。相澤は県庁の中ではかなり変わり者として通っていた。そんな相澤の口癖は「中央の企業を誘致して雇用を創生するという地方のありかたはもう終わった。新しい方法を考えないと地方は駄目になる」であった。
相澤の言葉を重く受け止めた黒澤は、起業家をサポートするためにはなによりも資金が必要だと考え、ファンドの組成に着手、約10億円を調達した。このことは第3回で書いたが、今回はマネーの調達とその運用について述べる。先に結論を書いてしまうと、調達より運用のほうがはるかに難しかったのである。
黒澤が資金調達に着手した時、中小企業総合事業団という独立行政法人があり(今の中小企業基盤整備機構にあたる)、県が主体となってファンドをまとめられるのであれば、県と同額を拠出すると宣伝していた。
独立行政法人であるから、これは国のマネーである。この制度を使えば、県が出せば同額を国から出してもらえるので、国と県で全体の50%がこの時点で埋まることになる。あとの50%は民間から調達すればいい。黒澤は第1号ファンドの調達金額の目標を10億円と定めた。となると、国と県が2.5億円ずつ出して、併せて5億円。
残りの5億円は民間、つまり地元の金融機関や企業からの調達となる。そして調達はできた。
さて、金さえ集まれば、それを運用する会社、要はベンチャーキャピタル(以後、VC)を通じて、しかるべき企業にこれを配ってやればいい。しかし、意外なことにVCがなかなか見つからなかった。
なぜこのような展開になったのかというと、運用を任せるにあたって、黒澤がある条件を設けたからである。その条件とは、①事務所を地元に置くこと。②事務所の人間をひとり採用し、その人間をベンチャーキャピタリストとして育てること。この二点であった。
つまり、東京からマネーだけを送って遠隔操作するのではなく、地元に根を張って地元のベンチャービジネスを育ててくれということである。このような投資家の深い関与を表すとき、ベンチャーキャピタル業界では「ハンズオン」という言葉を使う。しかし、この「ハンズオン」の条件について、どの運用会社も「手間とコストを考えると割に合わない」と首を縦に振らなかった。
これはおかしな話だ。
というのも、「割に合わない」と結論づけているということは、投資してもその企業が伸びるわけはないと予見しているということだ。つまり、岩手におけるベンチャービジネスの可能性はほとんどないと見積もっているのである。
しかし、この結論は盛岡のある特殊性を勘案せずに出したものだ。
盛岡の特殊性とはなにか?それはアルプス電気盛岡工場が単に雇用を創出しているだけの組立工場ではなく、高度な技術者集団であったこと。そして、2002年の盛岡工場撤退後は、その技術がベンチャーに移行する。つまり、潜在的に高い技術が盛岡にはある。ここがカウントされていない。
ともあれ、交渉は次から次へと物別れに終わった。仙台でならやってもよいという企業はあったが、あくまでも県内という条件を黒澤は外さず、これさえも見送った。この頑なな姿勢を貫いた理由は自らの苦い経験によるところがあった。
黒澤はすでに1996年から2000年の間に大手ベンチャーキャピタルと取引をしていた。前述したように、大手は地方のベンチャー企業への投資はあまり熱心ではない。つまり、地方にはベンチャービジネスの可能性などないと踏んでいた。
さらに、投資はするが、その後のフォローはしない企業がほとんどで、結果もよろしくなく、黒澤はアメリカで教わったことを苦く振り返ることになる。アメリカ研修では、ベンチャーを興したいのなら、地元にマネーが必要だと言われた。また、地元のベンチャーキャピタルならびにベンチャーキャピタリストこそが重要だという指摘も受けた。
つまり、アメリカで受けた忠告は見事に的中していたわけである。もう同じ轍は踏むまいと黒澤は思った。しかし、盛岡にはベンチャーキャピタルがないのだから事務所を置いてもらうしかない。当然、ベンチャーキャピタリストもまだいないのだから、これは育ててもらうしかない。
黒澤はこのふたつの条件にこだわり、ついに京都にまで足を運ぶことになる。フューチャーベンチャーキャピタル川分陽二社長(当時)は、黒澤がこれまで会ってきたキャピタリストとはまったく異なっていた。
川分には地方をなんとかしたいという思いが強かった。東京ではなく、京都にオフィスを構えていたのもそれゆえである。また当時は石川県にもオフィスを出していた。いずれは本格的に地方にも展開しようと思っていたので「これを機会にその計画をすこし前倒しにしよう」と言ってこのオファーを受けてくれた。
しかしまだ、盛岡のオフィスでこのマネーを運用するベンチャーキャピタリストを地元から採用するという課題が残っていた。
ここで時計を1999年へと巻き戻す。北日本銀行からひとりの若手行員が岩手県中小企業振興公社(今のいわて産業復興センター)に出向している。
その名は、小川淳。彼はここで中小企業の経営者らと接し、経営者の考え方や経営プランに触れ、またコンサルタントが経営者らにアドバイスするのを目の当たりにして、自分がやりたいのはむしろこのような仕事ではないかと思うに至る。つまり、勤務していた銀行ではそのようなシーンがほとんどなかったということだ。
小川は三年間をこの中小企業振興公社で過ごし、2002年に一度、北日本銀行に戻る。銀行に戻った小川は審査の企画(簡単にいえば審査のルール作り)を担当することになった。しかし、前述した3年間の出向が刺激となって、もっと直接経営者と触れ合いながら仕事をしてみたいという思いが小川の中に本格的に湧き上がっていた。
そんなとき、小川はフューチャーベンチャーキャピタルが地元の人間を募集しているという情報を目にする。すでにオフィスだけは四月に盛岡にこしらえ、東京事務所からスタッフが通い始めていた。そして翌5月には、アルプス盛岡工場は完全に操業を停止していた。
ファンドのスタートと工場撤退がタイミングよく交差する形になったわけである。あとは地元でベンチャーキャピタリストの卵を探すだけという状態だった。そして、小川はこれに募集するのである。
ここで、先程の「ハンズオン」という言葉についてもう一度考えてみたい。
シリコン・ヴァレーでベンチャーキャピタリストとして活躍した原丈人は、ベンチャーキャピタルを「新事業を起こす事業持ち株会社」と位置付けている。「新しい技術の価値を見極め、出資を行うだけでなく、資本政策や人事、営業活動の支援にまで携わる」(『「公益」資本主義』より)とまで言うのだから、これこそまさしく「ハンズオン」であろう。
たとえば、起業家が出資を求めて来社した場合、どんな価値基準で投資する/しないを決めればいいのだろうか。事業計画書というのは、意地の悪い目で精読すれば、必ず穴がある。もう少し丁寧な言葉で言えば不確実性を孕んでいる。
そこを問題にしていけば出資できる会社はなくなるだろう。だから銀行は担保を取る。しかし、銀行が手がけるのは融資であるが、ベンチャーキャピタルが行うのは投資である。しかも預かったマネーは塩漬けにしていてはならない、どこかに出さないとベンチャーキャピタリストは仕事をしていないのも同然なのである。
このような筆者の疑問に対して、「結局ね、人を見るしかないんだよ」と川分陽二は答えてくれた。しかし、「人を見る」とはどういうことだろうか?
次回は産学連携から「人を見る」という問題を考えたい。
(続く)
第1話 新年の盛岡。激震が走った工場撤退の一報
第2話 「岩手に起業家はいるのか」・・・疑念からはじまった県のベンチャー支援
第3話 はじまった盛岡、ベンチャー狂騒曲
第4話 集う実力派エンジニア。始動した第一号ベンチャー
第5話 4250万円の開発資金を手にした時に見えた、女神の姿
第6話 進まぬベンチャー支援。盛岡に光を!
第7話 産官連携の新たな形。投資の理由は、片野圭二という男の可能性
第8話 夢、破れた男。そして再起
第9話 夢破れた至高の技術で、男は再び勝負する
第10話 盛岡に現れた、新たな雄。東北を動かす異端の登場
第11話 高校生とドイツへ。そこで明らかになった日本、そして盛岡の立ち位置
最終話 盛岡で起きた、必然という名の奇跡
文・榎本憲男(えのもとのりお)
小説家 長年映画会社でさまざまな職種に携わる。『エアー2.0』で大藪春彦賞候補。『真行寺弘道シリーズ』で新しい警察小説の可能性を切り拓いたと注目を浴びる。最新刊は『ワルキューレ 巡査長 真行寺弘道』。『カメラを止めるな!』の脚本指導も手がけた。