2002年のゴールデンウィーク、アイカムスラボの現社長である片野は仲間とともにある提案書の追い込みにかかっていた。それは、アルプス電気時代に盛岡工場閉鎖とともに途絶した自分の企画であった。そこには技術者の自負と、部品メーカーからの脱皮の夢が託されていた。と同時に、そこには思わぬアキレス腱も潜んでいたのである。
2002年5月10日、アルプス電気盛岡工場は完全に操業を停止した。翌日の盛岡タイムスが「26年の歴史に幕」というタイトルで報じている。工場従業員570人のうち、転勤を受け入れて同社に残ったのは、240人。退職を選択したのは330人。退職者のほうが多いということになる。
これは、終身雇用制度と年功序列制度、それゆえに、サラリーマン人生の後半になると賃金がぐっと上がる給与制度を併せて考えると、驚きの数字である。盛岡工場の灯りが完全に落とされた時、片野圭二は有給休暇を利用して、岩手大学地域共同研究センターの一室にデスクを借り、仲間達と研究開発事業の提案書を書き上げたところであった。
片野の頭の中には、明確な事業のアイディアはあった。そしてそれを実現するための技術についても自信を持っていた。となると、足りないのは開発資金だけということになる。
しかし、開発というのはやっかいなもので、これに失敗すると、この間の費用と努力は水泡に帰することになり、しかもその費用は簡単に膨らんでいく。これがものづくりという商売の難儀なところである。
とりあえず片野は、研究開発振興のため経済産業省が公募した「地域新生コンソーシアム研究開発事業」の競争的資金に応募したいと考えた。これにパスすると二年間は相当な金額の助成金が受けられる。
この応募に当たって、片野が相談を持ちかけたのが、岩手大学地域共同研究センター・リエゾン担当助教授の小山康文であった。
リエゾン(liaison)はフランス語で「つなぐ」という意味だが、ここでは人事交流だと理解しておけば問題ない。要するに小山康文は、産官学の連携に潤滑油となるべく県庁から大学に派遣された職員である。小山の経歴を追っていくと、所属や肩書きは変わるものの、やっていることはほぼ同じ、産学官連携のコーディネーターひと筋といった人物である。
その小山は、片野がアルプス電気を退社して岩手に残ると聞いた時、「そうか、残ってくれるのか」と驚いた。片野くらいに広く顔が利く人物ならば、たとえ同社を辞めたとしても就職先はあまたあるはずだと予想していたからである。
小山は、片野たちが企画書を書くための部屋とデスクを、岩手大学地域共同研究センターに用意した。そして、おそらく小山は、助成金獲得に際して提案書作成のコツを入念に指導したのだろうと思われる。小山は「片野さんは起業するべきでは」と助言したらしい。実はこの時の片野は、研究開発の情熱に燃えるあまり、彼のスケジュールには、起業というステップは明記されていなかった。小山の言葉にはっとして、片野はこれ以降、経営者となることを意識し始める。
しかし、企画書が完成に近づくにつれて、問題が明らかになる。この時点で、片野の身分は失業者であった。「国の公的予算が投入されるプロジェクトの総括責任者が失業中というのはマズかろう」と言うのである。
どうマズいのかと言われれば答えに窮するが、このような公的資金の投入には、拠出する側も慎重になる。なにがしかの身分というものが必要であった。とはいえ、片野はこの当時は失業手当をもらっているので、失業者ではないとは言えない。言えば嘘になる。嘘はさらにまずい結果を招きかねない。そこで小山がひねり出した妙案が、「いわて産業振興センター研究員 採用予定」という肩書きであった。
6月。片野は仙台に赴き、審査員を前に、「小型IT機器用減速機の開発」をプレゼンした。これが携帯電話に接続できる超小型プリンターの商品化につながる、という内容である。この減速機は片野が自信を持っていた技術であり、その後アイカムス・ラボのお家芸ともなるコア技術でもある。そして、この超小型プリンターこそが片野がアルプス電気時代の最期に工場の起死回生の決め手にするべく開発しようとしていた商品でもあった。
最初に試作した携帯用プリンタであり、その後開発した製品「primpact」の原型
盛岡工場撤退が発表された時、片野はこの商品の提案書を抱えて出社している。撤退によって切断された企画を自身の事業として前進させるためには、このコンペにはなんとしても勝たなければならなかった。それはアルプス電気時代からの片野の悲願でもあった。
在籍時代の後半、片野はプリンターの基礎技術の研究に専心していた。そのような技術があるのなら、その技術を売りにして受注する仕事も多々あったと想像できる。またそのようなビジネスはわずかな設備ですぐにもスタートできる。
しかし片野が挑戦したかったのは、あくまでもセット商品の実現と販売であった。それこそ、部品メーカーとしては非常に高い評価を得ながらも、自社商標の製品を広く世に訴えられなかったアルプス電気出身者の意地も混在していたと思われる。
さて、片野たちがプレゼンテーションしたのは、前述したように携帯から無線で好きな時にどこでもちょっとした印刷ができる超小型携帯用プリンターである。しかし、プレゼンのあとで、審査員から手厳しい質問が出た。
「これは一体だれが買うのか」
この時の審査員はみな写メも撮らないような高齢であった。なぜ携帯から印刷をしなければならないのかが感覚的に理解できなかったのだろう。しかし、この「需要はあるのか」という質問にはきちんと答えなければならない。
また、それはマーケティング論によって回答されることが望まれている質問だ。ところが、マーケティングというのは、技術畑一筋に歩んできた片野の苦手とするところだった。
さらに質問は、一転して、審査会場にいた約15人の審査員・スタッフに向けられた。「誰かこの中で欲しい人はいるかな?」。これは意地悪な質問とも取れるが、ある種の助け船でもある。
プレゼンテーションする側から納得いく回答が得られない場合はせめて「需要はある」という何らかの証拠が必要であり、「ある」という声がひとつでも挙がれば、その可能性を示唆する証拠となるだろう。
片野は祈るような思いで回答を待った。しかし、会場は静まり返ったままだ。片野たちにとっては最悪の展開である。その時、会場の後方から一人の若い女性の「私は買います!」という女性の明るい声が場内に響き渡った。
この一言が会場の空気を一変させた。地獄で仏とはこのことだろう。実際、片野はこの時のことを振り返り、「女神が現れた!」と思ったと言う。
結局、片野圭二は2年間で4250万円の開発資金の獲得に成功し、1年目は予定どおりいわて産業振興センター研究員として研究開発に取組み、翌年、2003年5月28日、仲間ふたりとともに八幡平市大更のプレハブの一角で、アイカムス・ラボを創業した。
これは次回のキーマンの話だが同年10月、県庁の黒澤芳明がかき集めた10億円のインキュベーションファンドを運営するフューチャーベンチャーキャピタル岩手事務所に、北日本銀行を辞めた小川淳という、ベンチャーキャピタリストを目指して入所してくる。
(続く)
第1話 新年の盛岡。激震が走った工場撤退の一報
第2話 「岩手に起業家はいるのか」・・・疑念からはじまった県のベンチャー支援
第3話 はじまった盛岡、ベンチャー狂騒曲
第4話 集う実力派エンジニア。始動した第一号ベンチャー
第5話 4250万円の開発資金を手にした時に見えた、女神の姿
第6話 進まぬベンチャー支援。盛岡に光を!
第7話 産官連携の新たな形。投資の理由は、片野圭二という男の可能性
第8話 夢、破れた男。そして再起
第9話 夢破れた至高の技術で、男は再び勝負する
第10話 盛岡に現れた、新たな雄。東北を動かす異端の登場
第11話 高校生とドイツへ。そこで明らかになった日本、そして盛岡の立ち位置
最終話 盛岡で起きた、必然という名の奇跡
文・榎本憲男(えのもとのりお)
小説家 長年映画会社でさまざまな職種に携わる。『エアー2.0』で大藪春彦賞候補。『真行寺弘道シリーズ』で新しい警察小説の可能性を切り拓いたと注目を浴びる。最新刊は『ワルキューレ 巡査長 真行寺弘道』。『カメラを止めるな!』の脚本指導も手がけた。