なぜアルプス電気盛岡工場からスピンアウトしたベンチャー企業だけが、たがいに連携し生き残ることができたのか? 私が思いつく理由をいくつかアイエスエスの鎌田にぶつけてみたが、鎌田は首をかしげた。
2002年のアルプス電気の盛岡工場閉鎖後、最初にスタートアップしたのはアイエスエスだった。4月1日のことである。
1月に閉鎖が発表されたものの、その機能を小名浜(福島県いわき)工場に移転させるため、引き継ぎが行われ、アルプス電気盛岡工場の灯りが完全に落とされたのは5月であった。
たとえ退職を決意した者であっても、5月までは工場に通いながら給料をもらえる。
そんな中で、4月、アイエスエスは早々と起業にこぎつけた。これを4月1日付の岩手日報が、「元社員、逆境の中企業」という見出しで取り上げている。写っているのは社長の小笠原政司(当時37歳)、と現社長の鎌田智也(当時27歳)である。
この記事に、工場閉鎖に向けて小名浜に備品を移転させる作業を粛々と進めていた盛岡工場はひさかたぶりに湧いた。居残り組は、その電光石火の早業に驚くとともに、来たるべき起業ムーブメントの急先鋒としてとして彼らを祝福したのである。
鎌田は岩手大学での専攻は工学部ではなく農学部だった。まるで畑違いの農薬の研究室に所属してカビの研究をしていたのだが、趣味でGA(遺伝的アルゴリズム)を使ったアプリを作ったりしていた。
中学生の頃からコンピューターのプログラムを書くことを趣味としているだけあって、この方面にはかなりの博識。『人工知能を作る (ボード・コンピュータ・シリーズ)』という共著があるほどだ。アルプス電気では、プリンターを動かす指令のプログラムを書く時に彼の能力が発揮された。
創業社長の小笠原は、芝浦工業大学大学院で電気工学を専攻し、平成元年にアルプス電気に入社した。盛岡工場ではフォースという業務用の大きなプリンターの研究・開発に携わっていた。特に電気回路に強い。
実は、アイエスエスを起業した小笠原と鎌田はアルプス電気の盛岡工場にいたとはいえ、同じ部署で仕事をしたことはなかった。ただ、小笠原はいちど鎌田が書いたプログラムを読んで、そのアルゴリズムに感心したことがあったという。ともあれ、この二人がじっくり話し合う仲になるのは、少し先のことである。
さて、日本政府が「バブルが崩壊した」と宣言したのは1992年。その後、日本経済は徐々に効率化を推し進め、新自由主義的な風潮が広まっていく。この傾向は2001年に発足した小泉内閣の構造改革によって加速され、非正規雇用が増え、終身雇用制度も揺らいでいく。
この流れの元年とも言うべき92年、アルプス電気は早期希望退職者を募り始めた。そしてこの年に、ひとりの技術者がアルプス電気に出向してきた。
山崎靖吾。この男が小笠原と鎌田を結びつけることになるのである。
山崎は技術者が多いアルプス電気の中に混じってもその技術力はピカイチと言われていた。とりわけ設計に強く、その腕を見込まれ、同社の様々な部署を渡り歩いて仕事をしたので、上記の鎌田・小笠原の両名とも接点があった。そして、1995年の暮れに山崎はフェニックスという会社に誘われる。
この会社は、効率化の波の中で、固定費をそぎ落としたいと同時に社内で育成した技術力も確保しておきたいアルプス電気が作らせた社内独立会社である(アルプス電気が15%を出資)。同社の総務部にデスクがあり、社員は早期退職したアルプス電気社員が占めていた。
96年の夏、フェニックスに合流した山崎は、やがて盛岡工場の閉鎖の噂を聞くと、盛岡にとどまりたいと思う人間がかなり退職するはずと考え、彼らを人材として確保しようと思いたつ。
上記の小笠原・鎌田は真っ先に山崎のターゲットとなった。山崎の鑑定では、鎌田については、若手なのにかなりできる奴だなと感じ、また先輩らから可愛がられているという印象をもった。小笠原は、我が強いところがありサラリーマン向きではないが、なんでも吸収してやろうという勉強熱心なところがよいと思ったし、実家が農家なので、盛岡に残りたがって退社するだろうという目算もあった。
さて、工場閉鎖が発表されると、山崎に口説かれた小笠原・鎌田の両名は盛岡にとどまりたいという思いと技術者として仕事がしたいという希望からフェニックス入社の決意を固めはじめる。しかし、フェニックスに入社したところでアルプス電気古川工場に出向になる可能性が濃厚だという実態が徐々に明らかになる。
「話がちがう」
これに小笠原が怒った。「よし、こうなったら盛岡で起業するぞ」と逆に鎌田と二人だけで起業に動きはじめた。結局、山崎の思惑は外れてしまったが、起業から2年後には、その山崎もアイエスエスに転職することになる。
さて、問題は資金である。彼らが調達に動いた先は、銀行でも公的資金でもなかった。彼らが向かったのは同僚達である。ひとり100万円を出資してもらい、あっという間に約1000万を調達し、小笠原を社長に立ててスタートした。
アルプス電気盛岡工場が閉鎖後も退職者が当地にとどまってベンチャー企業を立ち上げ、それらのほとんどが生き延び、連携を保ちながら、徐々に勢力を得ているのはなぜかを明らかにしていくのがこの連載のテーマである。筆者はある仮説を鎌田にぶつけてみたのだが、鎌田はこれに首を傾げた。
鎌田が言うには、それは強い仲間意識である。「起業したいので、出資してくれないか」という申し込みに、多くの仲間が、彼らもこれまでの職場がなくなり、社内にとどまっても不安定な状況に置かれる可能性が高い中、企画書も事業計画書も損益計算書も見ずに、ほとんど迷わず快諾した。
それは同じ郷土に暮らす仲間意識、そしてアルプス電気盛岡工場というある種の“街”で育った者たちが共有して持っていた価値観、そして技術者が多い盛岡工場特有の、ともに技術開発に切磋琢磨するライバル意識も合わさった仲間意識である。
実は“仲間”は社会学などでよく取り上げられるイシューである。誰を仲間だと思うのか、どこまでを仲間だと認定するのか、ということは共同体やナショナリズムの問題としてもよく議論される。そして、この問題の背後にあるのがグローバリゼーションであり、移民問題である。
戦後の日本は都市化が進み、村落共同体が崩壊したが、その代替機能を企業が果たし、そこで仲間意識が形成されたというのも定説だ。また、終身雇用制度はその仲間意識を醸成する制度でもあった。
しかし、1990年代からその制度は軋み始め、21世紀に入ると本格的に崩れ始めた。盛岡工場の閉鎖はこの流れの中で捉えることもできるだろう。その背後にはグローバリゼーションと効率を追求する新自由主義的な考え方の普及がある。
しかし、2002年においてはまだ“同じ釜の飯を食った”仲間意識は盛岡工場には残っていた。それが、一足先にアイエスエスを旅立たせたのである。
(続く)
第1話 新年の盛岡。激震が走った工場撤退の一報
第2話 「岩手に起業家はいるのか」・・・疑念からはじまった県のベンチャー支援
第3話 はじまった盛岡、ベンチャー狂騒曲
第4話 集う実力派エンジニア。始動した第一号ベンチャー
第5話 4250万円の開発資金を手にした時に見えた、女神の姿
第6話 進まぬベンチャー支援。盛岡に光を!
第7話 産官連携の新たな形。投資の理由は、片野圭二という男の可能性
第8話 夢、破れた男。そして再起
第9話 夢破れた至高の技術で、男は再び勝負する
第10話 盛岡に現れた、新たな雄。東北を動かす異端の登場
第11話 高校生とドイツへ。そこで明らかになった日本、そして盛岡の立ち位置
最終話 盛岡で起きた、必然という名の奇跡
文・榎本憲男(えのもとのりお)
小説家 長年映画会社でさまざまな職種に携わる。『エアー2.0』で大藪春彦賞候補。『真行寺弘道シリーズ』で新しい警察小説の可能性を切り拓いたと注目を浴びる。最新刊は『ワルキューレ 巡査長 真行寺弘道』。『カメラを止めるな!』の脚本指導も手がけた。