地方でとある大企業の工場が撤退した。しかしながら、空洞化するはずのその地には、その工場を母体としてスピンオフした数々のベンチャー企業が、新たな状況を作り出している。

その主なプレーヤーをまず紹介しておこう。部門は大きくは四つに別れる。まずは、スタートアップした企業群、そして、企業人に知見を提供するアカデミズム、マネーを提供するベンチャーキャピタル、そしてこれらを調整する官庁である。

企業群では、アイカムス・ラボの片野圭二。アイエスエスの鎌田智也、イグノスの大和田功、そして後半に登場することになるがセルスペクトの岩渕拓也。官庁では、岩手県庁の黒澤芳明。マネーの供給では、フューチャーベンチャーキャピタルの小川淳、アカデミズムでは、岩手大学の現学長の岩渕明教授、清水友治准教授らが重要な役割を果たす。

彼らはいま医療という分野で互いに連携を深めながら、雇用を創出し、地方を活性化しようとしている。なぜそんなことが可能なのか、そしてそれはどこへ向かおうとしているのか?

東京に本社を持つ企業が安い土地と労働者を求めて地方に工場を建てる。雇用創出のために地方もこれを歓迎するし、誘致もする。

しかし、グローバリゼーションが進むと、やがて企業はより安い労働力を求めて工場を海外に移転させはじめる。

働いていた労働者の多くは、リストラされるか別の事業所に異動して地元から姿を消し、工業の跡地は更地になり、やがてぺんぺん草が生い茂る。

これが我が国で進行中のいわゆる「空洞化」のイメージである。

ところが、岩手県の盛岡には上に挙げたようなものとは異なる光景が繰り広げられている。大きな雇用を創出していた事業所が撤退した後で、約半数以上の従業員が新しい就業先に向かうことなく、これまで勤めていた会社に退職届を出して当地にとどまり、ベンチャー企業をスタートさせているのだ。

日本を代表するメーカーの地元撤退

その大企業はアルプス電気(現在はアルプスアルパイン)である。創業は1948年。戦後、東京大田区雪が谷町にて総勢23名でスタートした電気部品メーカーである。戦後急成長し、その後は高度成長経済の波に乗って順調に業績を伸ばし、この分野では日本を代表するメーカーとなった。

その規模と実力に比して、知名度が一般人にまで浸透しているとまで言えないのは、同社が電子部品メーカーであるという点にある。

しかし、同社の部品はさまざまな電気器具に広く使われており、特に、ラジオ普及時にはバリコン(コンデンサーの一種)、さらに現在においても、スイッチやボリュームについては品質やシェアにおいて抜きん出た存在だと言える。

1950年代の朝鮮戦争による好景気を足がかりに事業を急成長させ、1972年には年商400億円を突破。そして1976年に新しく創業させた事業所が盛岡工場である。

実は、この盛岡工場は、北上川のきれいな水を利用して、半導体製造の拠点としようというのが当初のもくろみであった。しかし、共同事業のパートナーとして想定していたモトローラ社との調整が上手くいかずこの計画を断念するに至った。

そして、武田安弘事業部長の指示の下、路線を大きく変更し、ここをプリンター事業の拠点としたのである。この物語の主要アクターである、片野、大和田、鎌田らはいずれもプリンターの設計や開発に携わっていた技術者である。

冒頭で書いたように、この盛岡工場は2002年に、(岩手県民の感覚から言えば“突然”)閉鎖された。その理由は当時の報道などを調べてみてもよくわからない。

さまざまな説に触れたものの、この追究は別の機会に譲ろう。ともあれ、盛岡工場は閉鎖された。

しかし、その工場閉鎖から17年経った今、そこからスピンアウトしたベンチャー企業もこれらの企業のほとんどが存続している。

一般に、ベンチャー企業の平均寿命は5年以下であると言われている。起業してから7年以内に新規ビジネスを軌道に乗せられるのは、3分の1にとどまっているという(『真説・企業論』中野剛志著)。

このような定説を考えると、盛岡で起こっているケースはこれはきわめて稀なケースだと言える。それどころか、ベンチャーどうしで連携をとりながら、その規模を徐々に拡大させ、アルプス電気盛岡工場以上の雇用を創出していると言うのだから驚きだ。

ここで、ふたつの疑問が浮上する。まず、なぜ盛岡だけにこのようなことが可能だったのか?次に、これらのベンチャーどうしの連携は一体どのような未来をつくれるのか?

これらふたつの謎を、経緯を検証しつつ、解き明かそうとするのがこの連載である。

工場撤退による、“街”の消滅

2002年1月の正月休暇明けのことである。アルプス電気盛岡工場のプリンター部門の片野圭二(当時40歳)が、車で出勤すると、工場の敷地へと伸びる道の両サイドに報道陣がたむろしていた。前日に岩手日報がすっぱ抜いた工場閉鎖の報道を受けた地元のジャーナリストが社員たちの出社を待ち構えていたのである。

アルプス電気の盛岡工場は市の中心部から少し北に離れたところにあり、従業員の多くが車で通勤していた。報道陣は工場に向かう車の窓をノックし、空いた窓からマイクを差し入れてコメントを取ろうとした。もちろん、積極的に口を開く者などいない。

当時27歳で第一技術部にいた鎌田智也は「これからどうしますか」と記者に訊かれ、このときはじめて工場の閉鎖を知った。ともあれ、この日出勤した社員たちは、年賀の祝辞のかわりに職場の閉鎖の報を受け取ったのである。

「新しい仕事を盛岡で探さなければ」という焦りに似た感情が鎌田の心を占拠した。一方、閉鎖をすでに知って出社してきた片野はこの時、岩手大学と一緒に進めていた新しい商品の企画書を抱えて「どうしたものか」と悩んでいた。

工場が閉鎖されるとなると、当然、この企画は流れるだろう。すでに少し前から閉鎖の噂を耳にしていた片野は、このままプロジェクトを進めていいかどうかをつい先日も担当部長に確認したところであった。

部長からは、(箝口令を敷かれていたからだろうが)心配しないで進めたまえという返事をもらっていた。少々向かっ腹が立ったが、こういう事態になってしまえば部長を責めてもしょうがない。すぐに片野は、この企画をどうにかして成立させられないかと考え始めていた。

つまりこの時、すでに片野は会社を辞めてでも、この企画を実現させようと考え始めていたのである。

片野と同期入社でプリンターの設計から顧客獲得、さらには量産までを担当していた大和田功は、昨年の夏に工場の閉鎖を社外から打ち明けられていた。地元の金型メーカーの社長とゴルフ場を一緒にまわった時に教えられたのである。

連鎖倒産がないように取引先には事前に知らせていたようだった。もともと大和田は40歳の早期希望退職者制度を利用して独立する気だったので、すこし多めに退職金がもらえるな、と渡りに船のような気持ちで会社の決断を受け入れていた。

とりわけこの盛岡工場は大きな施設であった。東京ドーム四つがすっぽり入る6万坪の敷地面積、社員食堂は朝昼晩と従業員に食事を提供し、社員の健康管理のために保健士も常駐していた。近くには男子社員の独身寮も控え、女子の独身者には近くのアパートを買い上げ、女子寮として使っていた。野球などのクラブ活動も盛んで、敷地内で運動会やバーベキューなどの催事も行われていた。

それは一つの街だったと言ってもいい。その街がなくなったのである。完全な操業停止後は、出勤する従業員が運転する車で朝方は渋滞していた国道4号線は、交通量がぐっと減り、車の流れがスムースになった。そのかわり、岩手のハローワークの階段は、1階から3階まで元アルプス従業員の長蛇の列ができていた。

となると、これはもうアルプスの社員だけでなく市や県にとっても大問題であった。(続く)


【連載】東北再生

第1話 新年の盛岡。激震が走った工場撤退の一報
第2話 「岩手に起業家はいるのか」・・・疑念からはじまった県のベンチャー支援
第3話 はじまった盛岡、ベンチャー狂騒曲
第4話 集う実力派エンジニア。始動した第一号ベンチャー
第5話 4250万円の開発資金を手にした時に見えた、女神の姿
第6話 進まぬベンチャー支援。盛岡に光を!
第7話 産官連携の新たな形。投資の理由は、片野圭二という男の可能性
第8話 夢、破れた男。そして再起
第9話 夢破れた至高の技術で、男は再び勝負する
第10話 盛岡に現れた、新たな雄。東北を動かす異端の登場
第11話 高校生とドイツへ。そこで明らかになった日本、そして盛岡の立ち位置
最終話 盛岡で起きた、必然という名の奇跡


文・榎本憲男(えのもとのりお)

小説家 長年映画会社でさまざまな職種に携わる。『エアー2.0』で大藪春彦賞候補。『真行寺弘道シリーズ』で新しい警察小説の可能性を切り拓いたと注目を浴びる。最新刊は『ワルキューレ 巡査長 真行寺弘道』。『カメラを止めるな!』の脚本指導も手がけた。