突然だが、夜の渋谷の街並みを想像してみてほしい。

駅を出て、スクランブル交差点の喧騒をくぐり抜けセンター街へと進む。そこから道幅の広い百貨店が並ぶ通りがあり、さらに歩くと、今度は飲食店やアパレルブランドなどの店舗が軒を連ねる。

さて、ここまでの道のりで、100かそれ以上の“あるもの”を目にすることになる。それは何だろうか?

それは夜の街を彩るものでもあり、買い物や飲食で訪れた通行人に目的地を伝えたり、自らの存在をアピールしたりするものでもある。

その答えは、店舗の看板や屋外広告だ。渋谷のような繁華街に限らず、最寄り駅にあるコンビニや薬局、携帯電話ショップなど、私たちが暮らす町に必ずあるものでもある。

今回紹介する企業は、一言でいえばそれらを作る看板屋の一社だ。

しかし侮ることなかれ。

もし、その“看板屋”が冒頭に挙げたような関東の主要路線の駅看板から、デザインに工夫をこらした飲食店の看板、外資系高級ブランドの店舗に飾られたラグジュアリーな印象を与えるロゴマークまで、一手に担っているとしたら。

もし、社員の半分以上をエンジニアやデザイナーが占め、モーションキャプチャーを使った光の演出や、最新のプロジェクションマッピングなどを次々と手掛ける集団だとしたら──。

亡き祖父を継ぎ、看板屋をテクノロジーxアート企業へと発展させた阿部慎也と、株式会社セイビ堂の現在地を探ってみたい。

嫌いだった家業に、初めて光を見た日


この会社について知るために、少し時間を遡りたい。セイビ堂は52年前、阿部の祖父が茨城県鹿嶋市で創業。書道家の顔も持っていた祖父による、筆文字の看板が地域の企業から評判を得ていた。

阿部はセイビ堂の社名の由来でもある、母の清美が離婚したことを期に、看板屋である祖父母のもとで暮らし始める。

当時の阿部は、この家業が好きではなかった。それはある種の思春期特有の同族嫌悪でもあり、友人からの冷やかしも影響していた。当時の看板屋の仕事は、すべて職人による手作業だ。

塗料には特有のニオイがあり、作業着も汚れる。広告クリエイティブだといえば聞こえはいいが、そんなことを知らない友人からは「ペンキ屋」だと揶揄されることも少なくなかった。阿部は、そんな看板屋の仕事に嫌悪感を抱いていた。

しかし高校を中退すると、手に職をつけるために祖父の知人が経営する看板屋へ就職。修行の日々が始まると、この仕事への見方が変わった。

看板の四隅に木枠を付ける際の釘打ちにはじまり、下に敷いた型紙を切らないよう、絶妙な力加減によるカッティングシートの切り取りや、祖父も得意とした刷毛塗りなど。

阿部は「あんなにやりたくない仕事だったのに、うまくなるとおもしろくなる」と当時を振り返る。

もう一つ、現在の事業にも繋がる出来事があった。それは、阿部が友人と原宿に遊びに行った日のこと。

夕刻になり、街に明かりが徐々に灯り始めた。看板屋としての職業病だったのだろうか、阿部は街灯だけでなく、立ち並ぶ店舗のライトアップされた看板やネオンサインに自然と注目した。

夜を明るく、妖艶に照らすその光景が、阿部の目にとても魅力的なものに映った。

「看板屋としてのロマン」。このときの心境を、阿部はそう表現する。

ここからの行動は早かった。原宿から帰った翌日、阿部は勤務先に退職の意志を伝えた。勢いそのまま、電話帳で東京のネオンサインを扱う看板屋や業界組合にアプローチ。当時の勤務先の社長が、阿部の祖父から「孫をよろしく」と教育を託されていることなど知るよしもなく、転職を決めた。

一度は祖父の期待を裏切る形となった阿部。しかしこの行動力の高さが、後にセイビ堂を救うことになる。


祖父の他界。そして2011年に起きた、2つの悲劇


セイビ堂の歩みを表現するならば、月並みかもしれないが七転八起という言葉が的確だ。

最初のピンチは、阿部の祖父が病に倒れた1993年。阿部が20歳を迎えたときのことだ。後継者が自分以外にいないことから、阿部はセイビ堂を継ぐことを決意した。

とはいえ、その滑り出しは順調ではなかった。書道家であった祖父の字に価値を感じていた顧客が離れ、仕事が減ってしまったのだ。

阿部の本領はここから発揮される。

「まず母に頼んで、100万円借りたんです。それで当時の最新機器を揃えました。カラースキャナーとカラープリンター、パソコン、携帯電話、ポラロイドカメラ......。せっかく東京の会社にもいましたし、何より若いからこそできることをしようと思って」

この“設備投資”はどのように活用されたのか。

まずは近所を練り歩き、壊れた看板を見つけたらすぐさま写真に収める。これを会社に持ち帰り、修理の見積もりとあわせて、リニューアルをした場合の見積もりを作成し、電話営業をかける。その際、スキャナーとパソコンを使って新しい看板の合成写真(パース)を作り、カラー印刷して持参する。

これが広告主たちの度肝を抜いた。

「当時はPhotoshopのような画像編集ソフトが普及する前です。見積もりと一緒に写真を見せると、もう勝手に看板を作り変えたのか、と言われることもありました(笑)」

阿部は仕事にのめり込み、土日もなく働き続けた。このとき阿部が営業した数は2万件にものぼる。結果、鹿嶋には壊れた看板がなくなった。

テクノロジーを駆使し商機を見出す阿部のスタイルは、ここから始まった。

その後も、発光ダイオード(LED)に同業者の中では誰よりも早いと言っていい時期に着目。かつて憧れた「光る看板」作りに取り組み、東京進出や韓国での工場設立、積極的に事業を拡げた。

だが、2011年。東日本大震災による津波が鹿嶋の工場に被害をもたらした。この時期、韓国のLED工場でも、同じビルに入居する企業の火災の影響で、生産したLED電球がすべて溶けてしまうという、二つの不運にみまわれる。

だが、自粛ムードによる省エネや壊れた看板の作り直しといった文脈から、国内でLEDの需要が急激に増加。早くからLED看板を手掛けていたこともあり、「小さくても実績のある会社」として大手企業からも受注が相次いだ。

都心部の主要な駅に行くと、駅名が文字の形にくり抜かれた表示を見かけることがあるだろう。この手の看板は、光る“台紙”に文字を乗せることが主流だったが、それを作り変えたのも、セイビ堂の仕事だ。

よく見る駅の文字もセイビ堂の仕事だ(Takamex / Shutterstock.com)

その他にも全国に店舗を持つ携帯電話キャリア、アパレルブランドをはじめ、世界的スポーツイベントやアート系・広告の展示など、錚々たる企業・団体との実績を持つ。それを端的に表す、阿部の言葉が印象的だ。

「渋谷や銀座に行くと、だいたいうちの看板ですよ」

創業54年目のトランスフォーメーション


LED需要で息を吹き返したセイビ堂は、ラスベガスで行われる世界有数のサイネージ関連の展示会「デジタルサイネージエキスポ」への出展など、その後も躍進を続ける。

しかし、2011年から数年が経つと、より本格的なLED需要が到来。ここで競合となる大手企業の参入が活発になった。

「市場創造はできたものの、大きくなった市場での戦い方を身に付けていなかった。うちである理由がなくなり、オリジナリティがぼやけてきたんです」

セイビ堂が持つ強さとは何か。阿部が至った結論は、業界の先駆けであること。2018年、創業50年を迎えたタイミングでCIとミッションを刷新。「驚きと感動を創出する」という言葉を掲げ、新たなスタートを切った。

話は変わるが、筆者たちが取材に訪れたセイビ堂の東京オフィスの入り口には、カメラの付いた巨大なモニターがスタンドに立てられていた。

そこから会議室に通され、特に意識せずにモニターの前を通り過ぎると、英語のアナウンスが流れた。取材スタッフ3人の体温が瞬時に計測されたことに、ここで初めて気づく。

通常、この手の体温計を使う場合、モニターの前で歩みを止めたりスピードを落としたりする必要があることを、コロナ禍で体験した人が多いだろう。そのことを指摘すると阿部が嬉しそうに教えてくれた。

「他社より0.1秒早いんです。些細な違いに聞こえますが、陸上競技で0.1秒違うのと同じ感覚です」

この非接触体温計は大人数の列が連なるため、歩調を変えずに進みたいショッピングモールなどの入り口で導入されるという。加えて、顔認識技術により体温と出退勤データを紐付けられる小型の非接触体温計も開発。こちらはアスクルで全国展開されることがすでに決まっている。

この他にも、地元のサッカークラブである鹿島アントラーズとのパートナー契約によるeスポーツ方面での事業展開など、SEIBIDOUへと名を変えた同社は、もはや“看板屋”ではない。

今年で47歳を迎えた阿部は、自身のゴールを60歳として、折返しに来ていると話す。彼の関心は目下、次代を担うメンバーの育成だ。

「職人や技術者の腕があって、それをアイデアで新しいビジネスに変えることが、私たちのDNAだと思うんです。そのDNAを継いでもらえるような環境づくりを進めています」

街を輝かせる仕事にロマンを抱いた男は今、社員を輝かせる経営者として未来を見据えている。

文・小野祐紀 写真・小田駿一


【編集後記】

取材時に初めて彼らの実績を知った。

正直、サイズとして決して大きくないこの会社が、こんなビッグプロジェクトを手がけているのか、と驚いたのが本音である。

セイビ堂の歴史は思ったよりも長い。街の看板屋からスタートし、今はデジタルサイネージはもちろん、まさかのeゲームの分野にも進出している。新型コロナウイルスによる需要の変化もきちんと掴んでいる。

これはもう街の看板屋ではない、紛れもないベンチャーだ。

彼が引退する60歳まで、あと13年。彼の強いイズムが着実に、しっかりと引き継がれることを切に願う。