新卒で入社した外資系企業の日本オフィス撤退から始まったキャリア変遷。
前回の記事では、撤退における過酷なクロージング業務・グリーへの転職・MBA留学試験への挑戦までを辿ってきた。そこには「自分の後悔しない選択をすること」というメッセージがあった。
第2回である今回は、留学中の試練から帰国後の就職と転職までを寄稿いただいた。「人生における仕事のあり方」について、読者が改めて考える機会になることを願っている。
サンダーバード国際経営大学院に入学した私に待ち構えていたのは、壁に次ぐ壁だった。
英語での「雑談」。
意外にもこれがはじめの壁だ。
前職グリーでの英語面接を突破し、必死で勉強してMBA試験にも突破した私の英語力、それはコンテクスト(文脈・脈絡)が理解しやすい場面で発揮されるものだった。
一方で、ランチや飲み会のカジュアルな会話はコンテクストが無い。様々な話題が雑音の中でくだけた英語で話される。
何が話されているのか全く理解できないカフェでの会話。それが苦痛で、寮の部屋にランチを持ち帰る日さえあった。自分の考えを即座にニュアンスも含めて表現できないことは確かに大きなストレスだったが、それ以前にリスニングが弱いという点も致命的だった。
さらに過酷だったのは、プログラム中に求められる尋常ではない勉強量。課題本を読む範囲も、たとえ日本語だったとしても間に合わないほど膨大だった。
「なんとかするしかない」
そう自分に言い聞かせ、いかに取捨選択をして生き延びるか、常に危機感と戦っていた。しかも課題をこなすだけでなく、授業では積極的な挙手と発言が求められる。さもなければ点数を下げられ、卒業も難しくなるからだ。
サンダーバード国際経営大学院のMBAプログラムの特徴の一つに、グループアサインメントがある。これは各授業グループでのレポート提出が必須というもの。入学当初は先生が生徒のバックグラウンドを考慮しチームを選ぶが、その後は徐々に自由チームとなっていく。
つまり、評判の悪い人はグループに入るのが難しくなる。
チームに貢献できること、一緒に働いていて気持ちいい人物であることを示さなければ、残り者同士でチームを作ることになる。それは避けたい。
書いた英文がほぼすべて書き直されることすらあった私だが、Excel作業は誰よりも早かった。Excelワークショップを開くなど、自分の持つノウハウや情報を他人に共有することで存在価値を高めていこうと決めた。
プログラムを楽しむ余裕などなく、ただ食らいついていた、はじめの数か月。自分は何ができる人間かを短時間で証明し、チームでアウトプットを出す経験は気づけば私の血肉となっていた。
あっという間に2年という月日は流れた。
はじめての海外長期生活。辛かった日々にも徐々に慣れ、プログラムを完遂できた。夏休みを利用し、サマーインターンとしてアマゾンジャパン合同会社でマーケティングを経験したり、奇兵隊というスタートアップで経験できたことも成長につながったと思う。
日本で生活をしていたら絶対に出会わなかったであろう、多様なバックグラウンドをもつ友人ができた。ありのままの事実や違いを受け入れるマインドも身についた。
濃密な留学経験は、武者修行としてビジネスで戦える力をつけた以上に、根底から自分を変える経験となったのは間違いない。
卒業式。各国から1人選出されるflag bear、日本代表となりスピーチをした
アメリカに残るか、日本に戻るか。アメリカのある企業と日本マイクロソフトからオファーをいただき、後者を選んだ。
開発者やIT Pro向けのマーケティング(デベロッパーエバンジェリズム)というポジションでの採用。マーケティングを経験したかった私にはまたとないチャンスだった。
さらにマイクロソフトはSatya Nadellaが2014年CEOに就任してから、クラウドへビジネスを完全にシフトしていた大変革期、エキサイティングな環境が私を待っていた。
隙のないマネジメントシステム、グローバルブランディングからオペレーション、組織や人事制度も素晴らしい仕組み。同僚たちも尊敬ができるメンバーが揃っていた。
私が所属していたエバンジェリズムチームはプレゼン集団。その道のプロ、人を惹くプレゼンスキルの高い人ばかりだ。
私はイベントマーケティングを主に担当し、ハッカソンなどの企画・実施、デジタル施策なども担当し興奮の日々を送っていた。
「米国の決済系スタートアップStripeを受けてみないか?日本法人の初期メンバーにならないか?」
留学前、グリーで一緒に働いていた知人からの突然の誘い。
「クビにされなければ最低5年間くらいはマイクロソフトにいると思う」と返答した。だが、何度か話すうち「こんなに面白い機会はまたと無いのでは」と心境に変化があった。
今では世界14の事業拠点で2500名以上の従業員を抱え、同社の決済プラットフォームを導入しているのは数百万社とも言われているStripe。しかし、お誘いをもらった時点のStripeのサービスは、日本ではパブリックベータ版で正式ローンチ前。まさに「日本でのビジネスをこれから作っていく」というフェーズだ。
日本法人の初期メンバーでビジネスの成長を自分たちの手で実現する。環境はインターナショナル。ユーザーのメインターゲットがソフトウェア開発者。マイクロソフトで担当したのがソフトウェア開発者向けのマーケティングだったために親和性も非常に高い。
ワクワクする気持ちが自然と湧き出るのを感じながら、今マイクロソフトを辞めるのが本当に良い選択なのかと葛藤した。マイクロソフトの待遇はもちろん申し分ないし、入社して間もない。経歴を見るとただのジョブホッパーに見えてしまうのではないかという懸念もどこかにあった。
しかもその時、妻は妊娠していた。
「子育てしながらスタートアップで働けるのか」
その一方で、「日本ビジネスの立ち上げにチャレンジしたい」......そんな狭間で揺れ動いていた私に妻が言った。
「あなたが楽しく仕事をした方が、私と生まれてくる子どものためにも良いに決まってる」
腹は決まった。私は、日本法人5人目のメンバーとしてStripeへ入社した。
Stripeでは、ユーザーサポート、マーケティング(コミュニティなど)をメインに、幅広い仕事を任された。他国オフィスとの連携も多く、英語を実際に使う頻度も格段に増えた。
急激に増えるユーザーと、それに伴いサポートへの問い合わせ数も急上昇。企業が成長するというのはこういうことかと肌身で知った。
「サポートが良くてStripeに決めた」とか「Stripeのサポートは格別」、中には「徳永さんのサポートでなんとかなった」と書かれたブログを目にしたときには感激した。
ユーザーサポートの傍らで、サポートチームの新メンバーの採用、育成、メンタリング。ユーザーコミュニティの拡大支援、製品に関する記事、ユーザーコミュニティや外部コミュニティでの登壇など、素晴らしい経験をした。
日々湧き上がる課題に対し、改善や予防策を考え提案し実行する。蓄積されたノウハウがない中ではどんなバックグラウンドの人間も対等であり、誰しもが価値提供の主体となれる機会に溢れていた。
手探りで様々進める中でやっと得たナレッジを共有し、後任を育成していくのは性に合っている、と思えた。企業が成長していく中で、自分がファシリテートしながらチームを作っていく楽しさの中で、圧倒的に自分らしくいられると思えたのがStripeだった。
さて、最終回となる次回記事は、子どもの誕生を機に環境を見直すようになったことから回顧していきたい。体調不良に陥ってしまいつつも復帰をした今、10年のキャリアを経て私が考える「人生の意思決定」について寄稿できればと思っている。
(続く)
文・徳永康彦