キャリアは人生とともにある。転職、大学院進学からのキャリアアップ、あるいは起業といった選択肢。それに並行して結婚や両親の介護といったライフイベントが訪れる。
この連載では10年強のキャリアの中で、海外MBA留学、4回の転職、結婚・出産と地方移住を経験した徳永康彦氏の寄稿を通して、「人生における仕事のあり方」について考えてみたい。
2020年4月某日。私は静岡県長泉町の自宅にて、この記事を書き始めた。人口4.3万人くらいの小さなこの町を拠点に、居住者だけで約1400万人を擁する東京に本社があるクラウドロボティクスプラットフォームのスタートアップ、Rapyuta Roboticsで働いている。移住したのはちょうど1年前の4月だった。
子どもの生活環境のこと、妻の実家がとても近くなりサポートを得やすく、自分にもありがたい環境ということが一つの理由だった。また、夫婦ともに東京への執着が全く無く、リモート勤務をベースにしつつも新幹線で東京へ通える東海道線三島駅があるということで、思い切って移住した。
いわゆるQOL(Quality of Life、生活の質)がこの上なく高まるのではないか、という目論見だったが、この決断はとても良かった。
今、世界を見渡すと“コロナショック”の真っ只中。先日解除されたが、日本も緊急事態宣言が発動された。「リモートワークを」「在宅勤務を」、そんな声が飛び交っている。
それができるのはまだまだごく一部の人であるが、ここまで日本全体で働き方を「自分ごと」としてとらえたことは、初めてなのではないだろうか。
移住当時を振り返ると、こんな世の中になることなど、1ミリも想像していなかった。
私がこの町へ引っ越した「選択」は間違っていなかったと、結果論ではあるものの、心の底から思う日々である。素晴らしい子育て環境、広い家なのに家賃は東京の約半分、美味しい食物、温泉へのアクセスの良さ、満員電車ではなく新幹線で東京へ1時間以内の立地、人口密度の低さ、などなど......。
自然が豊かな環境での子育て。奥には富士山が望める
こうした経験からも、人生においてもっとも重要なことの1つは「自分の意思で選択する勇気を持つこと」だと思っている。
「35歳・会社員」という、いたって普通のキャリアパス。ただ結果として、大学卒業から12年でMBA留学1回、転職4回、そして冒頭で紹介した移住を経て今に至っている。その選択一つひとつに背景があり、転職は選択であるという考えも同時に持っている。
これがもし、キャリアを悩んでいる方々へ1つの示唆になるのならと思い、私のこれまでについて書かせていただくことにした。
最初の転職は、私が意図したものとはかけ離れていた。むしろ意図していないものだった。
2008年、とある小さな都内のソフトウェア開発兼ITコンサルティング企業に入社した。資本はアメリカだったので外資系。しかし、多くの人がイメージするような「ピカピカの外資系」という感じではない、中小コンサルティング企業だ。
さまざまなプロジェクトでコンサルタントとして仕事をし、ビジネスパーソンとしての基礎を叩き込まれた。素晴らしい先輩、同僚に恵まれた。しかし3年近く経った時、残念ながら日本のオフィスは本国の意向により事実上の解散をすることになった。突如として、自分の次の道をなかば強制的に考えさせられることになった。
選択の道は2つあった。
その会社でプロジェクトを共にしていた何人かのメンバーが設立したコンサルティング企業へ入るか、見知った人もいない外の環境へ出てみるか。
私は迷いに迷って後者を選択することにした。これがはじめての転職活動であり、その後のキャリア選択においても転機だったといえる。しかし、この転職活動はお世辞にも全然良いものではなかった。
リモート勤務をする現在、自宅は妻の実家にも近い。実家近辺の風景
転職活動でまずぶち当たったのは書類の壁。なかなか、選考を通過できなかった。
レジュメや職務経歴書など、書き方をまったく知らなかったのも原因ではあると思う。ただ同時に、無名の会社の新卒3年目、25歳のコンサルタント──それ以下でもそれ以上でもなかったのも事実だと思う。際立った数字で個人のパフォーマンスを表すこともできない。そんなレジュメであった。
コンサルのジュニアだと、自力でなにかのパフォーマンスを示すというのは少し難しい。採用する側としては「この人何ができるんだろう?」という状態であったのは明白だ。受ける企業は軒並み書類落ち。面接にも呼ばれない。
やっとのことで書類が通り、一社から内定をいただいたが、新卒の頃よりも低い金額(今でも覚えているが年収300万)でのオファーだったのでそこは断ることにした。
コンサル時代、めちゃくちゃ働いて、エクセルではマウスなどもちろん使わずにショートカットキーを駆使、VBAマクロを組んでデータなどの自動処理も当たり前のようにできる。パワーポイントでの資料作成や議事録、ミーティングのファシリテーションなど、これまでの3年間で求められてきたことはそれなりにできるようになった。
しかし、「あなたの価値は?」と聞かれると答えられない。
「何ができますか?」「どんな企業で働きたいですか?」「何がしたいですか?」
転職エージェントに行くとそんなことを問われ続けた。実はその当時、心身ともにボロボロだった。
転職活動と並行しながら、解散する会社の撤退処理を行った数ヶ月間。自覚がなかったが、家族にも急激に老けたと言われるくらい疲弊していたようだ。
書類選考も通らず、撤退処理ではいろいろな厳しいことを経験し、ほぼ全ての自信を失っていた。そんな中で何がしたい、何ができると問われても、「私はこれができます!」と、自信を持って答えられる心の持ちようではなかった。
そんな中でも強く決めていたことがあった。
それは「成長業界で、グローバル展開に関わる仕事」に携わること。これは心の底からの思いだった。撤退処理を経験したからこそ、解散や倒産の可能性が低い成長企業で働こう、そう決めていた。
そんな矢先、私に手を差し伸べてくれたのは「英語」と「プライベートのつながり」だった。大学のひとつ上の先輩がたまたま声をかけてくれたのだ。
「トク、グリー受けてみない?英語話せるんだっけ?グリーンカード(米国の永住権)持ってるんだっけ」
グリーは2011年当時、グローバル展開へ向けて急成長していた企業の筆頭だ。そして、自分もユーザーとしてサービスを初期から使っていた会社の面接に呼んでもらった。短期留学こそしたことはあれ、大学まで日本で育った私はもちろん、グリーンカードなんて持っていない。
そして訪れた面接の場。「グローバルの仕事がしたいということなので、英語で面接しましょう」
面接官に突然そう言われ、英語面接が20分くらいなされた。外資系企業の日本オフィス撤退作業という思わぬ仕事のおかげもあってか、それなりに耐える力はついていたようでなんとか乗り切った。
まさか誰もが知る急成長中の会社に入れるとは思ってもいなかったので、内定の連絡を受けた瞬間は嬉しさでいっぱいだった。英語が救ってくれた。そして、人の縁が救ってくれた。
そうとう踏ん張った撤退処理も少し残っていたが、私は2011年3月に他のメンバーより一足先に退職した。これが私にとって最初の転職だ。
この経験から、強く意識するようになったことが2つある。
キャリアを「自分の意思」で選べるような人材になること。もう1つは、外的変化があっても自立できる人間になること。これはその後に起きたリーマンショックや東日本大震災、そして現在のコロナショックにも通ずる教訓だったと思う。
友人との旅行先で
2011年4月、グリーに入社した。非常に濃密な経験をした外資系の開発・ITコンサルティング企業を退職した翌月だった。
当時のグリーは超がつくほどの急成長を迎えていた。
社内の活気がすごく、一緒に働くメンバーも非常に若くて優秀な人ばかりだった。ものごとの進み方が尋常ではないくらい早く、サービス展開、組織の拡大など、毎週同じことが無いくらい早いペースで変化していた。
そうした社内の雰囲気についていくのに本当に必死だったし、今振り返ってみると正直ついていけていたのか分からない。とにかく自分がぽんこつに感じ、「時間でカバーするしかない」と思う自分がいた。でも不思議なことに、ほとんど辛くなかった。
企業の成長が目に見え、チームの雰囲気もかなり良い。そういう時、どれだけ働いても苦ではないと感じることがある。当時は独身だったからこそできた働き方だったかもしれない。
しかし、体調に異変を感じることも何日かあり、自分をマネジメントできていなかった。こうした経験から、体調を崩すほど働いても正直何も戻ってこない、という学びもあった。
そのようにハードに働きながらも、かねてから実現したい夢があった。それが30歳までにMBA留学をすることだ。
その理由の一つが、英語だ。
私は「英語」に何度も救われてきた。グリーへの就職やその他の仕事でもそうだが、大学受験、高校でのサマースクール参加など、あらゆるところで英語がカギになった。
特に日本では、「英語が話せるとチャンスが舞い込んでくる」というのが確固たる事実である。
得られるチャンスが増えるという意味で、英語ができることはキャリアで有利に働くと思っている。例えば日本の労働市場では、TOEICのスコア分布を見ると、895点以上を取ると上位4%以内に入れる。(参考データ)
ただし、ここでいう英語というのは、英語でビジネスができるというのが本質だ。それができれば、いたるところでチャンスを得られる。私もまぎれもなくその一人である。当時から、今後はよりいっそう国際感覚をもった若い世代が増え、英語でビジネスができるのが当たり前の世界がくると感じていた。
今、私が勤めている会社もそうだし、わかりやすい例で言えば、楽天やユニクロもそうだ。
「英語でビジネスをする」という意味で、海外でのMBA留学は理想的なステップの一つだとずっと感じていた。
そうした思いがあったので、多忙のレベルを超越していたものの地道に留学への準備を続けていた。土日は基本勉強、平日も終電帰りでなければ自宅近くのマクドナルドで勉強。勉強は苦ではなく癒しだった。忙しい日々から離れ、集中していると気分がリフレッシュしていた。
そして2013年、無事に合格。素直に嬉しかった。米国アリゾナ州にあるThunderbird School of Global Management(サンダーバード国際経営大学院)という、かなり特色のある(※)大学院に行くことに決めた。そのため、2013年6月でグリーを辞めて、米国に旅立つことにした。
※同校は少人数制かつ外国人留学生比率が70%を超える。長い歴史があり卒業生には、アルヒ(ARUHI)株式会社 代表取締役会長兼社長 CEO兼COOの浜田宏氏、デジタルハーツホールディングス 代表取締役社長CEOの玉塚元一氏、Forbes JAPAN Web編集長の谷本有香等。
グリーを退職するとしたとき、ありがたいことに引き止めをしていただいた。「まだ若いし昇進も昇給もできる」と当時の部長に言ってもらい、実はほんの少し迷ってしまったのだ。
当時は貯金のために実家に住んでいたので、母親にぼそっと「ほんの少し迷っている」と言ったところ、真っ向から否定された。
「何言ってるの!?せっかく受かったのに、今行かないでいつ行くの!?今でしょ!ぜっっったい、後悔するよ」
と言われたのをよく覚えている。たしかに、もし留学に行かなかったら間違いなく人生で後悔していただろう。
グリーでの2年と数ヶ月はとてつもなく濃いもので、この経験があったからこそ次の経験に活きたと実感している。
まず、グローバル展開の難しさ。日本から世界へと、挑戦する企業は多い。しかし、それに成功している企業はとても少ない。勝つための戦略は何か?どうやって実行するか?そして結果を出す。これが困難を極める。
グリーにいた当時、海外展開を実行するための計画を出せと言われても自信を持って出すことは出来なかっただろう。そして、自分には現地で戦える戦闘能力も足りないこともわかった。だったら、ここから2年間、一気に修行するしかないと踏ん切りもついた。
元旦、実家近くから見た日の出。MBA留学という新しい挑戦へ、扉を開いた
日本にいると協調や、和などをみださないという意識が自然と出るが、転職を経験して「価値ある差別化」が大事と気づくようになった。
他人と同じだとあまり自分の価値や特徴を自信を持って強調しづらい。
業務に関係する中で使えるスキルや経験で、自分が持っている組み合わせは一体いつどこで価値を出せるのか。
これを強く意識することになった。また、いつ会社がなくなっても、自分を救えるのは自分だけ。そう思った時に、自分を救う経験やスキルは一体なんだろうと考えることが多くなった。
外に出るとさまざまな人に出会える。今までと違った業界を経験すると、これまでの当たり前が特別なことであったり、自分にとっては目新しいことでも他の業界では当たり前だったりする。その意味で、外の世界を知ることは、自分をより高い解像度で見られるようになるのでとても大切だ。
自分にとって初めての長期留学。外の世界を知る上で、留学はこの上ない経験になるだろうと思い、興奮と緊張でいっぱいだった。
(続く)
文・徳永康彦
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