35,000回。 

この数字が何かご存知だろうか。正解は、「人が1日に行う決断の回数」である。たとえばあなたが5秒前にこの記事を読もうとタイトルをクリックしたのも決断。このように大袈裟に感じるようなものも含めて、人は絶えず決断をし続けているのだ。

そんな日常的な決断はもちろん、大きな決断に差し迫られることも人生ではしばしばある。Jリーグクラブ・ジュビロ磐田で英語通訳を務める(取材当時)野田智裕氏も、過去、サッカー選手時代に数々の決断をしてきた。

「サッカーの契約は1年単位がほとんど。そのタイミングで、自分の人生はどちらの方向に進めばいいのかを毎回、必然的に考えさせられるんです」

高校・大学と補欠で、試合にさえ出られなかった野田氏。それでも夢を諦めず、海外でのプロ契約の可能性を探るため、3年間で8ヵ国を渡り歩いた。

競争が過激であるシビアなプロスポーツの世界で、野田氏が直面した壁、苦労、挫折たち。彼は折々でどのように思考し、行動してきたのか。そしてその経験が、現在の通訳という仕事にどのように活かされているのか、じっくり伺っていこう。



夢のために、圧倒的な努力ができなかったから。「期間限定」の再挑戦を決めた


今でも鮮明に思い出せる、保育園にサッカーゴールが運ばれてきたときに心躍った記憶。幼い頃からずっと、夢はサッカー選手でした。ただ、それ相応の努力をできたかというと、そうではありません。

高校では、朝早くから人一倍練習している同級生を脇目に、「他のことにも興味がある」と言い訳をしていました。大した努力をせずに結果を出せる、そんな甘い世界ではない。一度も1軍の公式戦には出場できないまま卒業を迎えました。

「努力できなかった自分が悔しい。もう一度頑張りたい」と、大学でもサッカー部に入部。けれど、ここでも公式戦にはなかなか出場できません。

僕はリスクヘッジしたがる性格。プロのサッカー選手になることは難しいという現実も、さすがに見えていました。

「将来はサッカーの指導者になろう。このままサッカーを続けるより、教える経験を積んだ方がためになる」と、大学2年のときにサッカー部を退部。少年サッカーチームのコーチに就いたんです。

そこで教えていた小学生たちは、すごく純粋にサッカーを楽しんでいました。彼らを見ていると初心を思い出し、サッカーがプレーしたくて仕方なくなっていました。まだ、選手としてやり切れていない自分に気づいたのです。

「次こそ納得いくまでやろう」

勇気の要る決断でしたが、幸い父親にも背中を押してもらって。大学卒業後に2年間の期間限定で、「プロのサッカー選手になること」に挑戦しようと決めました。

オーストラリアのセミプロチームでプレイ中の野田氏


少しでも確率が上がる海外で挑戦、ただ、プロにはなれず


試合に出られなかった自分が、日本でプロサッカー選手になれるわけがない。それならと、海外で挑戦することにしたんです。

「どうせなら、日本人の多い欧米ではなく、南米で勝負してみよう」と向かったのはアルゼンチン。迎えた最初の試合。思うように動けず、まったく活躍できませんでした。

次の挑戦を求める中で、アメリカでトライアウトが開かれることを知ります。ちょうど、日本へ一時帰国するための飛行機がアメリカ経由。「これは参加するしかない」と向かったものの、結果は最終テストで不合格。ここでもプロにはなれませんでした。

アルゼンチン、アメリカ、オーストラリア、シンガポールなど多くの国を渡り歩きながら、経歴書を送ったり、練習場に直接行って監督に直談判したり、様々な手段を使って自分を売り込みました。そして、やっと掴んだマルタでのプロテストのチャンス。手応えもあり、「明日のテストでいいプレーができれば合格」というところまで来ていたんです。

しかし、テスト前日の練習中にまさかのケガ。最悪のタイミングであり、当時の鈍い音が今でも忘れられないほど、ショッキングな経験でした。もちろん翌日のプロテストは受けられず、当日やって来た別の選手がチームと契約することになりました。

掴みかけていたチャンスを落としてしまったのは、タイムリミットの2年を迎える頃でした。


「今しかできない」を軸に、即決・即行動ができたからこそ掴み取った夢


プロサッカー選手になれないまま迎えたタイムリミット。夢は諦めて帰国し、地元で営業マンとして働き始めました。

「プロサッカー選手として必要とされない」経験をし続けてきたからこそ、お客様から信頼していただけることはうれしく、やりがいを持って働いていたんです。

それでも、サッカー熱は冷めません。社会人チームに所属してサッカーを続けながら、SNSで海外のサッカー関係者の方をフォローして情報を追っていました。

そんなある日、ふと見つけた「東南アジアのチームで日本人選手を探しています」という投稿。迷いもせず、「興味があります」とコメントしました。

夢は諦めたつもりでしたが、チャンスを目の前で逃した悔しさがまだ残っていたんです。それに、「夢を叶えることと営業の仕事、今しかできないことはどっちだ?」と問うと答えは明確で。

プロ契約の条件の1つは、「来月からフィリピンに来られること」。即決できたこともあって合格を出していただき、フィリピンでプロサッカー選手になることが決まりました。

フィリピンでプロサッカー選手となった野田氏


得点王でも契約は更新されず。ようやく、現役引退を決意


チームにとって僕は“助っ人”。絶対に結果を残さなければいけませんでした。「とにかくチームに貢献して、1部リーグ昇格を支えたい」という意識で試合に臨んだ結果、リーグ得点王のタイトルを獲得。チームも1部昇格が決まったんです。

高校・大学では試合に出られなかった僕が、フィリピンでプロサッカー選手になってタイトルを獲得できた。環境が変われば夢を叶えられることもあると知りました。しかし、プロに翌シーズンの契約保証などありません。その年限りで僕は契約を切られてしまったんです。

ようやく、気持ちの整理が付きました。プロサッカー選手を引退することに決めたのです。


セカンドキャリアは通訳。異国でプレーする外国人選手の気持ちに寄り添って


現役引退後は、2019年からJリーグクラブで英語通訳を務めています。

通訳の話をもらったときも「1週間で返事が欲しい」と言われて。僕以上に実力がある人は多くいる中で、今回も即答できたからこそ、チャンスを掴めたんだと思います。

海外でプロサッカー選手としてプレーした経験は、通訳業務にとても役立っています。

最初のアルゼンチンでの生活がとても寂しかったのを覚えていますし、自分が点を取ることでしか自分の価値を証明できない外国人選手のプレッシャーも、経験者として理解を示すことができます。

言葉が通じずコミュニケーションが取れないと、ストレスは積もり積もっていくんですよね。特に日本人選手には英語を話せる人が少ないから、話し相手もいない。

そんな中で試合に出られないと、「なんで俺はここにいるんだろう」と悩んでしまうもの。だから、そういう思いを敏感に察して、僕が話し相手になったり、友達のように一緒に出掛けたりして、リラックスしてもらえるようにしています。

また、外国人選手の人柄はサポーターには伝わりづらいもの。選手の人間性を知ってもらって、サポーターからより応援される選手になってほしいという思いがありました。そこで始めたのが、「#通訳目線」というハッシュタグを付けてのSNSでの発信です。

発信して、サポーターが温かいコメントをくれたら、外国人選手も自然と「こんなにいいサポーターがいるチームなのだから、もっと頑張ろう」と思ってくれます。

一見華やかに映る通訳業務ですが、選手の家探しや家族のサポートなども含め、業務は多岐に渡るので大変です。けれど、外国人選手がストレス無くプレーできて活躍してもらえるのなら、できることは何でもやろうという意識でサポートに徹しています。

写真中央、外国人選手の後ろで通訳をする野田氏(写真提供:ジュビロ磐田)


挫折経験と現場感覚。僕の強みを生かして、日本でもっとサッカーを盛り上げたい


今後は、一度ビジネスの世界に飛び込みたいと考えています。

サッカーが文化として国に根付いている様子をアルゼンチンで目にして以来、「いつか運営側としてサッカーを盛り上げたい」と思ってきました。そのためにはビジネスで結果を残し、発言力を身に付ける必要があると感じています。

「元プロサッカー選手」「海外生活の経験」「通訳業務を通じて身に付いた現場感」が僕の武器。そこに「ビジネスセンス」「発言力」も加えて、サッカー界に恩返しをしていくことが、次なる夢ですね。

かなり回り道をしているので、僕のキャリアに否定的な人もいます。「諦めろよ」「そこまでして夢を追って何になるんだ」と言われたこともありました。

けれど、そんな声を押しのけてまで、自分の夢を貫き通してきたからこそ、今までの決断や挫折を無駄にせず、正解にしていきたい。それは、これからの僕の努力しだいだから頑張るしかないと思っています。

文・倉本祐美加